Hsiang kuang pure land buddhist centre
仏教を学ぶ: 宇宙の法則、真理、正道を遵守すること
老いず、病まず、霊性は死なず、西方極楽世界へ往生する
仏教を学ぶ:本来の自分を取り戻す蘇居士語録
仮の身をもって真を修めることは、修行者が持つべき基本概念であり、 この仮の身で修行して見性し、自性・仏性を取り戻すことが修行の目的である。 人体の細胞一つひとつには、その人が無量劫の世から持ち越してきた記憶が含まれている。 つまり、すべての細胞が阿頼耶識を持ち、自性・仏性も備えているということである。 もし十分なエネルギーがあれば、細胞一つひとつを浄化し、 純粋で善なる状態にし、清浄で平等な中に生きさせることができる。 そうすれば、細胞の阿頼耶識を大円鏡智へと転換し、 細胞の自性・仏性を顕現させることができる。 自性・仏性が生き生きと活動し始めたとき、 その修行者は見性し、見性成仏するのである。 見性した者は、細胞の一つひとつを浄化できる。 細胞の一つひとつが仏であり、 それぞれが単独で成仏する機会を持ち、 細胞の霊性が千百億化身の一部となるのである。 細胞の中の霊的な生命は、細胞の空間に存在している。 これは科学的に探究することは難しいが、確実に存在しているものである。 信じる者は、修行と学習を通じて浄化し、自性の能力を開花させ、 純粋で善なる自性を取り戻す機会がある。 もし少しでも疑いがあれば、その霊性は汚染され、見性は困難となる。
仏菩薩の世界では、 言葉は必要なく、すべては心念の間にある。 私が蘇居士の見性した身体を観ると、その空間は普通の人よりも広い。 その理由は心にある。心はすべての主宰であり、 見性した者の心に境界はなく、衆生を救うことに終わりはなく、心の広さも無限である。 有形の物体について言えば、 凡夫の目は実体しか見えないが、 見性した者は心が透明で、六根が完全に開かれ、身体も透明である。 その透明さゆえに実体を突き抜けることができ、 実体が透明に目の前に現れ、一目瞭然となる。 身体は一つの実体であり、 その中に含まれる細胞などの動態や多くの生霊も、 本能的な能力を通じて、 文字や言葉で、見えた状況を表現することができる。 見性した者にとって、身体は世間で衆生を救うための道具である。 今、蘇居士は見性した後、 無辺の衆生を広く救い、衆生の苦しみを見ている。 身体の苦痛を恐れず、ひたすらに行い続けている。 このような身体の試練は、一般の人には耐えがたいものである。 なぜなら、人々にとって身体は世間に存在するためのものであり、 大切に守り、少しの損傷も許さず、苦しむことも望まないからである。 そのため、病気を感じたり、衆生が憑依したりすれば、 あらゆる手段でそれを取り除こう、癒そうとする。 もし修行のために衆生の苦しみを代わって受ける、あるいは身体の苦痛があると言えば、 退いてしまい、前へ進むことが難しくなる。 これは身体の試練を乗り越えていないからである。 慈悲と一体観を養って初めて、身体への執着を解くことができる。 身体の試練を乗り越えれば、修行は大きく前進する。 身体の試練には、昏沈を克服することや、空間に入ることなども含まれる。 蘇仏は、自身の知る能力や見性の過程を、 講経説法の中で大衆に告げている。 法を聞く者が冥界の衆生であれば、 蘇仏の身体を見て、修行の功夫やどの段階に達しているかを知る。 蘇仏を知る者は、その親しみやすさゆえに、 語る言葉がすべて真実であることを軽視してしまう。 もし教えを聞いて学べば、そこから大きな利益を得ることができる。 現在、蘇仏の身体が衆生の苦しみを代わって受け、救い出した衆生の中には、 三十年前の衆生もいるが、 体内に入った後は静かで穏やかな状態であるため、 蘇仏の見性の行いには影響していない。 蘇仏の身体に本来備わっている五十兆の細胞も同様である。 蘇仏の心身は無私で衆生のためにあるため、多くの細胞の衆生は現れない。 そして、純粋で善なる者ほど、細胞もそれに従って浄化され、 細胞の質は正のエネルギーへと転換される。 たとえ身中に憑依する衆生がいても、身中の大きな環境に感化され、 悪心はなく、悪念も起こらず、悪行もない。 たとえ衆生が悪心や悪念を起こし、悪行を働いたとしても、 蘇仏の心身の正念に感化されて心を転じ、念を転じ、行いを転じ、 正心、正念、正行に入る。 つまり、自身の正報の心行が、憑依する衆生の依報の心行を転換させるのである。 それによって見性に近づき、老病死の姿なく見性に至る。 もし自身の正報の心念や行為が、業力、 冤親債主、憑依する衆生の障害を受けて生老病死があれば、 それは自身の正報が冤親債主や憑依する衆生の依報に従って転じられ、 見性から遠ざかっているのである。